長府毛利邸

 

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 明治36年(1903)、長府毛利家14代藩主の元敏によって建てられた邸宅で、明治天皇の行在所(宿泊所)としても使われたところです。

 昭和23年、下関市に移管され迎賓館や福祉館として利用されていましたが、平成10年4月に観光客用の施設として改装しオープンしました。

 重厚な母屋と白壁に囲まれた、書院庭園と池泉回遊式の庭園が往時を偲ばせてくれます。

 

 所在地  下関市長府惣社町4-10

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 長府毛利邸 083-245-8090

 

功山寺山門

 

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 功山寺略年表によると、長享元年(1487)暴風雨で倒壊した山門を、安永2年(1773)10代藩主毛利匡芳が再建したとあります。

 山門は下関市指定文化財となっています。

   指定年月日 昭和四十五年三月四日

 この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永二年(1773)長府藩主 十代 毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。

 

 山門(三門)とは、本堂に入るのに通らねばならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、その略からといわれています。禅宗の門にみられる三間三戸二重門。二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。

 

 建築様式の特色として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱四本と控柱八本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。

 

 また、櫓を支えている太い十二本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削り込み、その下部先端は急に細めた、粽型となっています。

 

 山門の建築資材は、これまで度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅の素木を用いて建てられています。

 

 木鼻等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗様式を今に伝える貴重な文化財です。

   下関市教育委員会

 

 所在地  下関市長府川端一丁目

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 功山寺 083-245-0258

 

長府万骨塔

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博物館

 長府の篤志家、桂弥一(かつらやいち)が、昭和8年に私財を投じて建てた長門尊攘堂を昭和55年(1980)4月に郷土の歴史博物館として開設しました。

 幕末・維新の資料を数多く展示しています。

 主な収蔵品には、長門国鋳銭遺物・長府毛利家遺品・幕末維新関係資料等がああります。

 

 

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万骨塔

 隣接した高さ7.7メートル、直径13メートルの土饅頭型の万骨塔は、明治維新を中心として、国事に命を捧げた名も無き人々の霊を供養するため、弥一が建てたものです。 塚には「一将功成って万骨枯る」の碑と日本各地から寄せられた石が供えられています。

 毎年十月二十日この塔の前で慰霊祭が行われています。

 

 所在地  下関市長府川端一丁目

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 長府博物館 083-245-0555

 

平家塚

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山あいの里、高畑は壇の浦の合戦(1185年)で滅んだ平家の落人が隠れ住んでいたところと言われています。

 平家塚は、その落人の墓と伝えられているもので、碑の横をさらに奥へ進むと、古い五輪塔六基ほかの墓石がひっそりと建てられています。また登り道の反対側にも二基、切通しの市道の向う側にも四基あり、どの墓も、すぐ前の青い海を丘の上からじっと眺めているようです。

 ここは「平家薮」とも言われ、かってはここに一歩でも入ると、ふるいがつき、たたりがあると恐れられてきたそうですが、今は月一回地元の婦人たちの手で清掃され、香華が手向けられているとのことです。

 

 所在地  下関市大字高畑(野久留米街道から600m)

 交通   JR下関駅からバス18分「浜浦台」下車、徒歩15分

      下関 I.Cから車で9分

 問い合わせ 下関市観光振興課 083-231-1350

 

笑山寺

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 長府藩始祖毛利秀元によって、亀ノ甲 にあった廃寺潮音院を現在地に移して再建。実母の位牌を安置し、その法名にちなんで妙寿寺と改称したのに始まるといわれます。

 彼の没後、二代藩主光広が承応元年(1652)秀元の父穂田元清の霊位を功山寺から移し、その法名「洞霊寺笑山常快」にちなみ「笑山寺」と改称されました。

 長府毛利家の菩提寺の一つで、境内左奥には二代光弘、七代師就の墓や県内では貴重な鎌倉時代後期の特徴を伝える十三重の石塔(高さは3.28m)などがあります。

 所在地  下関市長府川端2丁目4-1

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩10分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩10分

 問い合わせ 笑山寺 083-245-1012

 

長府藩侍屋敷長屋

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 この建物は、長府藩家老職であった西家の分家(長府藩御馬廻役、220石)の本門に付属していたものを、保存のため移築したものです。

 中央に出入り口を配し、一見長屋風ですが、構造の重厚さ、特に仲間部屋格子窓の造り等は、上級藩士の住居の趣をよく残しています。

 壇具川沿いのこの地には、藩政時代、番所が設けられ、ここより南つまり藩主の居館のある方への出入りを監視していました。

 

 所在池  下関市長府侍町1丁目1

 交通   JR長府駅からバス7分「城下町長府」下車、徒歩15分

      JR下関駅からバス23分「城下町長府」下車、徒歩15分

 問い合わせ 長府観光会館 083-246-1120

 

日頼寺

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極楽寺と呼ばれていましたが、天正年間、毛利元就の四男元清(毛利秀元の父)が父の位牌を安置し、元就の法号「日頼洞春」にちなみ「日頼寺」と改称し、元就の菩提寺としました。

 この日頼寺の境内には、宮内庁の管轄地となっている「仲哀天皇殯歛の地」という一画があります。

 仲哀8年(199)1月に穴門の豊浦宮から、筑紫の橿日宮に移った仲哀天皇は、神がかりした神功皇后に伝えられた神託を信じず、熊襲討伐を強行しましたが成功せず翌9年(200)2月に亡くなられました。

 皇后は大臣武内宿禰に天皇の遺体をひそかに豊浦宮にはこばせ、そこで壇の上という所に祭壇をつくり殯を行い、この地に仮埋葬したという塚が現在でも残されていいます。

 

 所在地  下関市長府侍町1丁目10-1

 交通   JR長府駅からバス9分「松原」下車、徒歩5分

      JR下関駅からバス21分「松原」下車、徒歩5分

 問い合わせ 日頼寺 083-245-0384

長府庭園

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 毛利長府藩の家老、西運長(にしゆきなが)の屋敷跡で、大正末年頃から、大洋漁業の中部氏の所有となり、また戦後の一時期は進駐ニュージーランド軍司令官の宿舎にされたこともありました。

 平成2年に下関市が買い上げ、整備し、平成5年5月1日に開園しました。小高い山を背にした約3万平方メートルの敷地には池を中心に書院、茶室、小川があり、四季折々に庭園美を楽しみいながら散策できる回遊式日本庭園です。

 

 所在地  下関市長府黒門東町

 交通   JR長府駅からバス10分「美術館前」下車、すぐ

      JR下関駅からバス20分「美術館前」下車、すぐ

      下関 I.Cから車で10分

 問い合わせ 長府庭園 083−246-4120

 

下関市立美術館

IMG_0300.JPG狩野芳崖、高島北海、香月泰男など、下関ゆかりの作家の秀作をはじめ、国内外の名画、古代オリエント美術などを収蔵・展示しています。

狩野芳崖 1828〜1888

 藩御用絵師の子として幼い頃から画才を発揮しました。

 維新後の不遇時代を経てフェノロサに見出だされ、新時代を代表する画家として活躍し、名作「悲母観音図」を残しました。

高島北海 1850〜1931

 幼時から画に親しみ、官吏退職後、画家として名を成しました。

 仏留学中に浮世絵や水墨画を紹介し、アール・ヌーヴォーに大きな影響を与えたことでも知られています。

 

 所在地  下関市長府黒門東町1-1

 交通   JR長府駅からバス10分「美術館前」下車、すぐ

      JR下関駅からバス20分「美術館前」下車、すぐ

      下関 I.Cから車で10分

 問い合わせ 美術館 083-245-4131

 

源平船合戦海上パレード

紅白の旗や幟をたなびかせて、鎧武者が乗り込んだ80隻あまりのいくさ船が関門海峡で合戦模様を再現しパレードします。
源平の最終決戦である壇之浦の戦いを武者や官女に扮した方々が時代絵巻のごとく再現していきます。このパレードの模様は唐戸地区のボードウォークより一望できます。

http://kaikyomaturi.kanmon.tv